21:08 03/10/26
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sc恆存氏のゐる風景


文責:金子光彦

最新:第25話




sc恆存氏に関して時折眼にした諸氏のさゝやかな断片記や印象記は、そのまゝ散逸 させるには惜しいものがあり、つれづれに拾ひ集めて参りました。sc恆存氏の文章に親しまれる方々にも些少の参考になればと思ひ 少しづつ掲載をして行く予定です。 尚、●に続く文は、各氏の文章からの引用文。◆に続く文は、私自身のさゝやかな感想です。

(引用文は各氏の表記通り。私の文章は歴史的仮名遣ひで表記)




第1話

(「sc恆存さんのこと」・江藤淳)

●sc恆存さんとはじめて出逢ったのは、昭和三十二年六月、雑誌「文學界」の「日本の小説はどう変るか」という座談会の席上だった。場所は当時銀座に在った文藝春秋新社の応接室で、出席者は石川達三、高見順、伊藤整の諸氏以下、司会者の荒正人氏まで含めて実に十三人という大一座である。そのうちで、今も健在なのは堀田善衛、遠藤周作、石原慎太郎の諸氏と私の、たった四人だけになってしまったのだから無常迅速といわざるを得ない。

この座談会は、高見さんと私が激論したというので有名になった座談会だったが、scさんは痩身にグレーの背広を着こなして、終始颯爽と議論をリードしていた。確かsc恆存訳のコリン・ウィルソン『アウトサイダー』が出版されたばかりの頃で、scさんにとっては、小説の「ヘソ」がどうとかしたというような、高見さんの持ち出した文壇的な議論など、最初からどうでもいい些事だったに違いない。実際、私なども、scさんがあまりつまらなそな顔をしているのでそれに力を得て、つい本心をその儘にいったらそれが高見さんの疳に障り、大激論にまで発展したという次第だったから、本当の仕掛人は文壇に出たての私などではなくて、scさんのあの憮然とした表情だったのかも知れない。

◆これは江藤淳氏が書き留めたsc恆存氏に関するさゝやかな記憶である。その江藤氏もまた鬼籍に入られた事を思へば、まさに「無常迅速といわざるを得ない」。   「憮然とした表情」で思ひ出すのは、sc恆存氏自身が後年「言論の空しさ」と題した文章の中で、「私は二十数年前と同様、厭な世の中だなと憮然としてゐる」と記したことである。    文壇人の議論、喧しい政治論争、進歩的知識人達の言論に対して、氏は常に「憮然」とした表情で応へた。「言論は空しい、いや、言論だけではない、自分のしてゐる事、文學も芝居も、すべてが空しい」といふ、自己の内面の中心にある虚数を常に意識した精神の強靭さこそ、氏の文學と思想の急所をなしてゐたものだらう。しかもその上で、「それを承知の上で、私はやはり今までと同じ様に何かを書き、何かをして行くであらう」と、虚実皮膜を生活の信条として徹した人として、氏の生き方に一種の爽やかさと潔癖さを見るのは私一人であらうか。




第2話

(「うしろ姿」・福原麟太郎)

●この間は、橋岡久太郎の能「花月」を見て、さすがに名手と、感嘆を惜しまなかった。その少し前には、喜多宗家三代能で、喜多六平太の「景清」を見て、久しぶりに堪能した。(中略) 私はいつも六平太翁の能を見て帰るときの夢見心地で、ふらふらと坂を上って目黒の橋の上まで来た。ふと颯爽たる青年が目の前を通ってゆくのに気がついた。それはsc恆存氏であった。 私は、とっさに声をかけようと思ったが、あまりにリュウとしたscさんの姿に気を呑まれて、だまって見送ってしまった。思えば尾羽うち枯らした老残の身ながら、こんどはsc恆存の 文学をすこし勉強してみようと思い立った。

 ◆福原麟太郎は言ふまでもなく英文学の碩学である。氏はsc恆存氏が「直接に御附き合ひ戴いた英文学者」三人(市河三喜、斎藤勇、福原麟太郎)のうちの一人で、その中でも最も深く 附き合つたのがこの福原氏であつた。「福原先生」と題するsc恆存氏の短文があるが、そこには「この人は英国のために英文学を研究した人ではない、日本の文学を豊にするために英文学を 研究した人だ」と、記されてゐる。私も福原氏の「チャールズ・ラム傳」や邦訳の「エリア随筆」などを愛読した者だが、氏の質実で味のある文章には自然に惹きつけられるものがあつた。 福原氏には、また、「表現の深浅」と題した文章があり、sc恆存氏の「ホレイショー日記」を巡る表現分析が語られてゐる。『福原麟太郎随想全集2』に収められてゐるので、ご一読される 機会があれば、と思ふ。




第3話

(「sc恆存の知識人観」・村尾次郎)

●東京行の上り夜行列車に乗ると、偶然、scさんと乗合せた。寝台の号車は別であったが、食堂で落合ひ、夕食のテーブルをかこみながら話をした。話題の中心は歴史の観方や、歴史教育 のことであった。一つには、私が文芸や演劇方面に暗いため、scさんが気をつかつてくだすつたのであらうが、主としては、この人自身が歴史に深い関心を抱いてゐたからであり、ひいては 戦後の歴史教育に対し、甚だしく不満だつたために、期せずして話柄がそこへ来たのだつた。 二人の観るところは多くの点で一致した。私は愉快になつてビールを乾した。酒を好まないscさんは、細いからだに似合はず、大きなステイキをうまさうに平らげた。

◆村尾次郎氏は、大正三年生まれ。(sc恆存氏より年二つ下)国史研究家。上の文章は、氏が財団法人大倉精神文化研究所の理事をしてゐた頃の話で、村尾氏が初めてsc恆存氏と会つた時 の記憶である。村尾氏は、同会の講演でsc恆存氏に講演を依頼した折、氏が「ものを言ふ人は『何を言ふか』ではなく、『如何に言ふか』をこそ大切にしなくてはならない」と結んだ、と言ふ。 村尾氏の文章は『士風吟醸』(錦正社刊)に収められてゐる。




第4話

 
(「江藤淳氏とアメリカ」・平川祐弘)

●一九六〇年代、当時の日本と比較にならぬほど財政的に豊かな北米の大学に勤めてゐた鶴田欣也氏が多くの批評家・学者を次々と日本から招いたことはすでに述べた。その中で講演の趣旨がおよそ聴衆に伝わらず、そのため鶴田氏が司会役としてほとほと困り果てた一人は実はsc恆存氏だつた由である。トロントでの講演は一回としてうまくいかなかつた。聴衆の関心が奈辺にあるかを測って、それと対話しなければならない。ところがsc講演は空回りする。司会の鶴田氏がたまりかねてsc氏の断定的な発言の前提を問いただす。すると氏はきちんと説明できない。 

◆トロントでの講演が如何に不首尾に終つたかは、平川氏の文章でもあきらかであらう。平川氏は、「東大英文科の出身でシェイクスピアの訳者だつたsc氏が北米でそんな様だつた」と言ふが、かうした平川氏にsc恆存氏の「失敗」の本質が果たして見えてゐたであらうか。彼の講演失敗の本質的な理由は、「近代日本文学史の通念を全く持つてゐない」聴衆に対して、「近代日本文学」の特殊性を説く難しさにあつた。所謂「私小説」を藝術化せんと作家達が総掛りで取り組んできた「近代日本文学」独特の苦闘の意味は、容易に異国人に説明のつくものではなく、「きちんと説明」など出来るものではなかつたのである。突き詰めれば、sc恆存が論じようとしてゐた問題は、「近代日本文学」を論じることによつて、人間存在そのものの本質と、「絶対的価値」の問題に極まらざるを得なかつた。それを語らうとすれば、それは、いきほひ「断定的」にならざるを得なかつたのである。




第5話

 (「忘却のメカニズム」・高橋義孝)

●一体に私は恐るべき健忘家である。小学生の頃、ある日学校の水飲み場で水を飲もうとしたら、丁度ひとりの女 の子が水を飲んでいる最中であった。うしろに起った私はその女の子のスカートを捲くり上げて、さっと逃げた。 私のうしろには、同じく水を飲もうとしてsc恆存君が立っていた。女の子はくるりとうしろを振り向きざまsc 君の頬ッぺたをピシャリとひっぱたいた。この話は後年sc君から聞いたのだが、私にとっては全くの初耳で、そ んなことはけろりと忘れていた。

◆sc恆存氏は大正六年に東京私立錦華尋常小学校に入学したが、同級生に高橋義孝がゐた。高橋氏は大正二年(1913年)東京生れで、独逸文学者である。北海道大学法文学部助教授、九州大学教授 も勤めた。また氏は子供の頃から相撲が好きで、後年横綱審議委員会委員長にもなつた。 sc恆存氏は「酒」はめつきり駄目だつたが、高橋氏は反対に滅法「酒」が強かつた。 彼が敬愛した内田百閧燻豪であつたが、讀賣新聞の記者だつた篠原文雄氏の著書『日本酒仙傳』には 、「お酒に關しては壮烈無比。斗酒なを辭せぬ酒徒でとどまるところなく、全力投球の心意氣で酒にむかう。・・・」 とあるらしい。それにしても、二人の小学校の頃の想ひ出は、その瞬間を彷彿とさせて面白い。 いたづら好きだつた「高橋」君は、走り去りながら、後ろを振り返つたであらう。そこには「ピシャリ」と女の子に頬を打たれる「福田」君の呆然とした顔が あつたであらう。大人になつてすつかり記憶をなくしてゐた高橋氏に、sc恆存氏が子供の頃の冤罪を訴へたのだらうが、もはや懐かしい想ひ出を楽しむ一時だつたに 相違ない。




第6話

 (「ニューヨークのオーケストラ」・吉田秀和)

●この夜はバッハのブランデンブルク協奏曲第三番と、パルトークのヴァイオリン協奏曲と、シベリウスの第二交 響曲という曲目。(略)モントゥーの指揮というのは、とても面白く、ぼくは当夜の音楽会をニューヨークできいた 最高のものの一つに数えたく思った。   この夜はsc恆存、大岡昇平の両氏も一緒に聞いたが、この人たちもとても感激していた。sc氏などは「こん な音楽会を幾つもきいて、あなたは今とても幸福だろうが、日本に帰ったらそれだけ憂鬱になりますよ」とぼくを 脅した。

◆sc恆存氏は昭和二十八年九月から翌年三月までニュー・ヨークに滞在した。 吉田氏の回想はその折りのものである。




第7話

 (「ニューヨークのオーケストラ」・吉田秀和)

●丁度一九五三年の十二月三十一日の夜だった。大晦日の夜のニューヨークはタイムズ・スクエアの雑閙がみもの だそうで、丁度、その夜日米協会主事のオーヴァトン氏と一緒に、大岡、sc氏らとスキヤキを食べ、そのあとで、 みんなは昨年の人出二十万と称するその雑閙に出かけるとかいってたが、―もっともその雑閙の中で正十二時の鐘 がなると同時に市民達はお互いに抱きあって新年を祝すると言うので、その機会に美しいアメリカの女性をつかま えるのが、楽しみだったのかも知れないが―まだニューヨークについたばかりのぼくはそれよりも何よりも音楽第 一というわけで、美人にキスする楽しみは割愛して、この音楽会をききに出かけた。

◆吉田氏は、スキヤキを食べてsc・大岡両氏と別れた後、彼らが本当にタイムズ・スクエアの雑閙に出かけたかを 残念ながら書いてゐない。美人にキスする楽しみを彼らが味はふ事が出来たかどうか、それは永遠に分からない。




第8話

 (「傳統と反逆」・小林秀雄/坂口安吾対談)

●坂口安吾  sc恆存に會つた? 小林秀雄の跡取りはsc恆存といふ奴だこれは偉いよ。
 小林秀雄  sc恆存といふ人は一ぺん何かの用で家へ来た來たことがある。あんたといふ人は實に邪魔になる人 だと言つてゐた。
 坂口安吾  あいつは立派だな、小林秀雄から脱出するのを、もつぱら心掛けたやうだ。
 小林秀雄  scといふ人は痩せた、鳥みたいな人でね、いゝ人相をしてゐる。良心を持つた鳥の樣な感じだ。
 坂口安吾  あの野郎一人だ、批評が生き方だといふ人は。       

◆sc恆存氏は昭和十五年当時、中学時代の恩師西尾實氏の世話により、古今書院の新雑誌『形成』の編集に 携はつてゐた。彼が小林秀雄氏を鎌倉の自宅に訪ねたのも、この雑誌の原稿依頼のためであつた。この時小林氏 は原稿執筆を引き受けなかつたやうだが、sc恆存氏はそれを無理にでも頼み込む「編集者気質」は無かつたと言ふ。 雑談の内に、小林氏はふと「僕は近頃の若い者を信じないね」と語つたらしいが、sc恆存氏は「一も二もなく賛成した」。 小林氏の言ふ「近頃の若い者」とは、自分の担当する雑誌の若い読者の事だらうと彼は受け止めたらしいが、 恐らくsc氏は雑誌の編集を担当しながらも、読者の事などを大事に考へてゐたのではないだらう。その意味で確かに彼には 「編集者気質」は無かつた。彼の心中にあつたものは、やはり自己の実存の本質を考へる事とひとつであるやうな文学、文章 の事であつただらう。坂口安吾は、そのことをきちんと見抜いてゐた。




第9話

 (「sc恆存」・吉田健一)

●最初にsc恆存氏の名前を聞き、その顔を見たのは、戦争の最中だった。文学報国会が幾つかの部会に別れていた中に、評論随筆部会というのがあって、 確か昭和十八年にその集会が赤坂の三会堂で開かれた際に、これに属している批評家や随筆家が会長の高嶋米峰氏に指名されて五分間ずつ喋った。(略) その時、sc氏に順番が廻って来ると、sc氏は立ち上がって、いきなり「日本人の弱さというものに就いて反省したいと思います、」と言った。 それから旅順に行って二〇三高地に登り、そこの記念塔の前に立って感慨無量だった話をして、もう一度、「今こそ日本人の弱さに就いて反省したい、」と言って腰を 降した。戦争中に聞くことが出来た極く少数の骨がある発言の一つで、それでsc氏の名前が記憶に残った。

◆sc恆存氏は太平洋戦争中文部省の外郭団体である「日本語教育振興会」に所属してをり、満支に於ける日本語教育の実情調査のために大陸へ渡つたことがある。(昭和十七年) その機会に彼は旅順の戦跡を訪れた。そこで彼が感じたものは一体何だつたか。彼はそこで単に「第三軍司令官たる乃木将軍に対する同情」を感じたのではなかつた。 「ペトンの強靭な防禦力、敵の優秀な兵器や物質的な優越、さういふものを一切知る事無く、或は敢へて無視して、無謀にも等しい反撃を強行した、その事の可否善悪は 別として、それはそのまま当時のヨーロッパ列強に対し背伸びして力を競はうとする明治の苦しい姿勢を物語るものです」(「乃木将軍と旅順攻略戦」)と彼は書いてゐる。 彼が痛感したのは「近代日本の弱さ」であり、その「弱さ」を「いとほしむ」肉親の情であつた。 吉田健一の回想に戻れば、sc恆存氏はこの時の事を振り返って「勝ち戦の蔭にその事実を蔽ひ隠してしまふ戦争指導者」への「当てこすり」を試みたのだと言ふ。私は、それも 一つの理由だらうが、やはり「近代日本の弱さ」を戦跡にだけではなく、自己そのものゝうちに見出してゐた彼の心が「いとほしい」やうに思はれる。 今、思ひ出したが、確か中村光夫氏にも、この評論随筆部会でのsc恆存氏の発言に関する記述があつたやうに思ふ。




第10話

 (「教室の人となって」・西尾実)

●八月十五日には午前十一時に教授会があるという予定でしたから、その頃出勤しました。校門を入って講堂の前を通りながら驚いたことは、近年どういう会合でも少数の学生しか集まったことのない講堂に、全学生がぎっしり集まってきていることでした。(略)そうこうしているうちに正午近くなりましたので、わたしたちも講堂内の席に着きました。 (略)放送がはじまりました。一語一語はっきり聞きとれないように感じているうちに、「忍びがたきを忍んで無条件降伏をしなくてはならなくなった。」という意味のお言葉が耳に伝わってきました。誰もが泣いています。(略)家へ帰って何をしたか、何を考えたかおぼえていません。二階のsc君一家ともどんなことばを交えたかさえ記憶していません。

◆西尾氏は昭和四年五月から昭和八年五月まで、四年間に渡って第二東京市立中学校(現都立上野高等学校)教師として在勤してゐた。sc恆存氏の年譜には、大正十四年四月に東京市立第二中学校入学、昭和五年四月浦和高等学校入学とあり、二人は同中学校では一年間を共にしたことになる。西尾氏とsc恆存氏の因縁は深い。昭和十五年には西尾 氏の紹介でsc恆存氏は古今書院の雑誌『形成』の編集に携つてゐる。彼はこの編集の仕事を通して、小林秀雄、田中美知太郎、岸田国士などとの知遇を得るのである。また、昭和十六年に文部省の外郭団体である「日本語教育振興会」に彼が入つたのもこの西尾氏の世話による。そして、なによりも縁深いのは、西尾氏の媒酌でsc恆存氏が敦江婦人と結婚したことであらう。 彼の年譜では、昭和二十年五月に罹災。一家を挙げて杉並区和泉町八百十五番地の西尾実方に寄寓したことになつてゐる。「一家を挙げ」ての寄寓といふ事であれば、西尾氏の住居の二階には、sc恆存氏の両親、敦江婦人、妹二人(妙子、伸子さん)の六名が寄寓してゐたことになるのであらうか。(妹悠紀枝さんは十七年に結婚してゐる) 当時、sc恆存氏は、この西尾邸に寄寓しながら東京女子大学に講師として週一回出講してゐた。西尾氏は昭和八年から昭和二十四年まで東京女子大学に勤続してをり、sc氏の出講も西尾氏の世話になるところと考へられる。 かうした長年の付き合ひを考へれば、sc恆存氏にとつて西尾氏は大変大切な恩人とも言へる。昭和二十年の八月十五日、杉並の家で、二つの家族、sc氏と西尾氏が、一体どんな心境で時を過ごしてゐたか、想像するに余りある。




第11話

 (『太宰と安吾』壇一雄)

●「保田與重郎の家で、時に、ツルのようにやせて、学生服に身を包んだ、sc恆存氏の姿を見かけたような記憶もある」

◆sc恆存氏は、初期の評論「芥川龍之介論・序説」に、保田與重郎を意識したのではないかと思はれる、次のやうな文章を記してゐる。

「二、三年前の春であつた。(中略)僕は二人の友人と共に関西に遊んだ。陽のあるかぎり仏像や庭園などを見 て歩くことが僕達の日課であつた。僕は龍安寺の石庭に驚嘆し、奈良博物館の阿修羅に近代を発見した。一つの 屋根の下に何百といふ国宝を陳べ、廉価な入場料と最小の肉体労働を以て祖先の芸術的遺業に脱帽せしめようと する博物館といふ便宜な仕組に―この西欧人の思ひ付きに僕は危く感謝の念を捧げるところだつた。だが、或る 日のこと再び博物館を訪ねた時、それらの国宝にか、それとも僕の心にか一つの変化が起つた。暗い雲の間から 薄日のやうやく洩れてくる午前の天候に博物館の仏像は僕の驚いたことには、悉く不様な泥土と化してそらぞら しいほどの無縁の表情を浮べてゐたではないか。それらは僕の精神から、遥か遠くに距たつてゐる。僕の心の裡 を覗きこまうとせず、あらぬ方を眺めてゐるではないか。八部衆像の阿修羅は以前のやうに僕の憂鬱を代弁しては くれないのだらうか。いつのまにか不安は嫌悪に変つてゐた。僕は天平の傑作にいまは只嘔気を催すやうな嫌厭 の情を以て対するより外の方法を知らなかつた。」

保田與重郎は奈良県桜井の出身であつた。そして、 奈良博物館は、保田與重郎がしばしば訪れ、「血統」との確かな 紐帯を実感した場所であつた。壇一雄の記憶が正しいか否かは別として、 若き日のsc恆存氏は保田與重郎の影響下にあつたとしても、「親近」すればするほど、「疎外」と「拒絶」とを感じたのではなかつたか。 彼の初期の芥川論は、その自己告白であり、保田與重郎への必死の抵抗の詩のやうに思はれる。 例へば、彼の初期シェイクスピア論は次のやうな言葉で始まる。

「ブラッドレー教授よ。あなたがイギリスにおけるもつとも偉大なる批評家であることに、ぼくはいさゝかも疑 ひをさしはさむものではない。(中略)いはゞあなたは批評家の―すくなくともシェイクスピアを論ずるものの 試金石であるわけだ。が、ぼくはそのテストにみごとに落第する。といふのは、『シェイクスピアの悲劇』がお もしろくないといふ意味でもなければ、それに反対意見をもつてゐるといふわけでもない。たゞ不満なのだ―文 字どほり一種の生理的不満を感ずるのである。刺激され興奮させられ、しかもカタルシスを與へられないからである。」

私は、この文章の、「ブラッドレー教授」を「保田與重郎」に、 「イギリス」を「日本」に、『シェイクスピアの悲劇』を『後鳥 羽院』に置き替へてみたい誘惑にかられる。そこにsc恆存氏を読み解く鍵があるやうに思はれるのだ。




第12話

 (「三島由紀夫さんの想い出」・玉利齊)

●当時、三島さんが属していた鉢の木会の大岡昇平氏や吉田健一氏のことになると共感をもって語ったり、 福田恆存氏に始めたばかりのボディビルの効用を得々と語ったところ「三島君、まぐろばかりが旨いものじゃないよ。 干物には干物の味があるんだ」と切り返され苦笑しながら「あの人は僕よりガリガリの干物なんだ」と云ったりしていたのを 想い出します。

◆三島由紀夫の『決定版全集』が現在刊行中だが、その中に「福田恆存氏の顔」と題した文章があり、かう書いてある。

「福田氏は痩せてゐる。といふよりは、きはめて簡潔な肉体をもつてゐる。これ以上の簡潔さは不可能であるやうな。」

「簡潔な肉体」をもつsc恆存氏と、「ボディビル」で人工的な鍛錬で肉体を創造しようとした三島由紀夫との 肉体談義は面白い。「まぐろばかりが旨いものじゃない」「干物には干物の味がある」といふsc恆存氏の切り替へし(といふ か負け惜しみといふか)は、絶妙のユーモアをたゝへてゐる。彼らの会話を少し深読みをすれば、「あの人は僕よりガリガリの干物なんだ」 といふ三島氏の心理には自分自身の痩身を恥ぢるコンプレックスが横たはつてをり、「三島君、まぐろばかりが旨いものじゃないよ。」 といふsc氏の言葉は、そのコンプレックスを共有しながらも、それを宿命として引き受ける彼の人生観を示してゐるやうだ。




第13話

 (「国語問題と『キティ颱風』」・高井有一)

●今からはもう五、六年前にならうか、私は二人の友人ともども銀座でscさんを囲んで会食をした事があつた。 その日は折悪しく、暗くなる頃から雨が降り出した。食事を終へ、銀座の裏通りを歩くうち、自然に私がscさんに 傘をさしかける形になつた。たつたそれだけの話だが、私はそのときの靴音を忘れないでゐる。きつと雨の銀座は、 人影もまばらだつたのであらう。

◆高井氏は共同通信社の文化部記者だつた頃、国語問題を追ひかけ、sc恆存氏に何度も取材したといふ。「戦後の混乱期 に、たつた三箇月かそこらの審議を経ただけで制定されてしまつた現代かなづかひと当用漢字に、かねがね胡乱なものを感じて ゐた」高井氏は、早くからsc恆存氏の国語問題に関する苦闘に注目し、関心を寄せて来た一人である。氏もまた自らの文章を 歴史的仮名遣ひで記してゐる、数少ない作家である。引用した文章は、『新潮」のsc恆存氏の「追悼号」に掲載されたものゝ 一節である。いつもなら酔客の人通りが多い夜の銀座を、高井氏のさしかけた傘に入つて歩くsc氏の靴音は、今も高井氏の 心に刻まれてゐる。氏の文章を読むと、私もまたその靴音が聞えて来るやうな気がする。時はおそらく、昭和が終はつて一、二年後のことであらう。既に『sc恆存全集』は刊行を完結してゐる。自分の生涯の仕事を自ら編んで『全集』を成し、 一人の文士が雨の中を去つてゆく。それは、たしかにsc恆存氏の靴音だつたのであり、同時に、昭和の精神が去つて ゆく靴音だつたやうに思はれる。




第14話

 (「大作家論」・小林秀雄/正宗白鳥対談)

●正宗 「近頃の批評家では誰かね、sc恆存かね……。」
 小林 「sc恆存といふ人はおもしろいですね。」

◆正宗白鳥は小林秀雄氏が生涯尊敬した孤独な批評家、作家であつた。小林氏の絶筆となつた「正宗白鳥の作について」は、 長年関心と尊敬を抱いて来た文士への、愛惜の文章であり、かつ、自分の氏への関心の急所を表現したいと願ふ小林氏最後の 試みであつた。周知の通り、二人はかつて「思想と実生活」論争を行つた。文豪トルストイの家出について、正宗氏は、日本の文壇人 は「人生に対する抽象的煩悶に堪へず、救済を求めるための旅に上つた」と信じてゐるが、実際は「妻君を怖がつて逃げたのであつた」 、「人生の真相を鏡に掛けて見るが如くである」と書いた。小林氏はこれに強く反撥する。「我が敬愛するトルストイ翁!貴方は果して 山の神なんかを怖れたか、僕は信じない。彼は確かに怖れた。彼の心が『人生に対する抽象的煩悶』で燃えてゐなかつたならば、恐らく 彼は山の神を怖れる要もなかつたであらう」と反論する。小林氏には、「実生活」を犠牲にしてもなほ人間を去らない「思想」の力と いふものが深く信じられてゐる。「実生活を離れて思想はない」。しかし、「思想は実生活の不断の犠牲によつて育つ」といふのが、この当時の 小林氏の考へであつた。
それから十二年後に二人の対談が行はれた。小林氏は言ふ。「僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。 といふのは、あの時あなたのおつしやつた実生活といふものは、一つの言葉、一つの思想なんです」。正宗白鳥が「思想」といふ抽象的なもの よりも、「実生活」の方を信じたのは、正宗氏の「実生活」への「憧れ」だつたのだと小林氏は言ふ。正宗氏は「わからんな。自分のことは わからんな。」と応へたが、二人の会話は、世に言ふ「理解」しあつたといふよりも、それぞれの魂の「憧れ」の糸筋を追ひ続けてゐるやう に感じる。……さういふ対談の途中に、ふと「sc恆存」の話題が出る。「近頃の批評家では誰かね、sc恆存かね…」と問ふ正宗氏に対して、 小林氏は躊躇なく同意する。私は、そこに、二人がsc恆存氏のうちに、自分達が戦つて来たものと同じものを見抜いてゐるのだと 直感する。彼らの言ふ「殺生石のにほひ」である。




第15話

 (「萬能選手・sc恆存」・吉田健一)

●sc氏と鉢の木会で附き合ひ出して最初に解つたのは、氏が酒を殆ど飲まないといふことだつた。これは、それまでの経験から得た一つの 結論にとつては非常な打撃であつて、原稿を書く仕事の疲れは並大抵の方法では取れず、それでもさういふ仕事をする人間はそれだけ酒に 対しても強いのだから、酒を飲まない文士などといふのは三流なのだと決めてゐた(併し勿論、酒を飲む五流の文士だつてゐる訳である)。 所がsc氏は余り飲まなくて、その仕事に就いては文句の付けやうがなかつた。それで残された方法としては、実際を理論に近づける他なくて、 毎月会つて飲んでゐるうちには、少しはsc氏も飲み出すだらうと思つてゐると、確かにそれ程飲めないのではないといふことは解つた。 併しまだそれ位でもこちらが満足してゐるといふ訳ではない。一つだけ期待出来るのは、sc氏の酒量が僅かづつながら増して来るのに対して、 我々のが年とともに減つて行くから、いつかは両方が一致するだらうといふことである。sc氏に酒を強いられたら随喜の涙が出るだらうと思ふ。

◆吉田健一氏については酒にちなんだ話題が多いやうだ。まだ、この先も酒をめぐる題材を沢山与へてくれるだらう。 鉢の木会は当初中村光夫氏、吉田健一氏、sc恆存氏の三人が時々会つて話を楽しむ会であつた。その後、これに神西清、吉川逸治、大岡昇平、三島 由紀夫の四氏が加はり七名となつた。主人役は廻りもちで、月に一度は集まつて話に花を咲かせるのである。sc恆存氏はこの会について、「欠席すれば、 きつと悪口を言はれる」と証言してゐるが、他人が欠席した時の悪口の酷さを皆知つてゐるので、各自万難を排して駆けつけたのではないか。戦後まもなく の頃であらう、当時作家達は『近代文学』や『批評』といつた同人的な雑誌に依つてグループを作る傾向にあつたやうだ。埴谷雄高、花田清輝などの「夜の会」 などもあつた。おそらく「鉢の木会」もかうした他のグループを意識して始まつたのではないかと大岡昇平は見てゐる。当時は食糧にも困つた時代だつたが、 彼らは所謂ヤミの食べ物を手に入れて集まる。彼らが文学の話で盛り上がつてゐる隣の部屋では、彼らの婦人達が井戸端会議をやる、さういふ雰囲気の会合 だつた。sc氏にも「鉢の木会」といふ短い文章があるが、自分達の関係は「君子の交り」の如く、さつぱりしてゐて乾いてゐる、と書いてゐる。当時のsc氏 は四十前後の年齢であつたが、気の置けない連中との一時は、用心しながらも、やはり彼らの青春の一時だつたのではないだらうか。

それにしても、吉田氏のやうな大酒飲みと付き合はされたのでは、sc氏も参つたであらう。鉢の木会も昭和三十年代後半に入つて消滅する。 吉田健一氏が望んだ「sc氏に酒を強いられた」時の「随喜の涙」は、つひに見ることが出来なかつた。彼らの年齢とは別の、彼らの内心に輝いてゐた青春の 炎が、時の変遷の中で幻と消えたやうに感じられて、淋しさを覚えるのは果して私一人か。





第16話

 (第15話・続)

●鉢の木会については、前の第15話で触れたが、何か喉に引つ掛かつたやうで、あれだけで話を締め括る訳にはゆかない気持ちが止まず、続けたい。 大岡昇平氏が埴谷雄高氏と対談したものが『二つの同時代史』(岩波書店刊)として出てゐるが、その中に、大岡昇平氏の次のやうな証言がある。

「それまで鉢の木会というのはただ酒を飲む会だったのが、(丸善から同人編集誌『聲』を出すことによって)これでちょっと文壇的になってきたわけだ。 そしてそのために中がだんだん割れてきたという傾向もなきにしもあらずだった。」

「最初は三島由紀夫と吉田健一との仲が悪くなったんだよ。会えば会うほど吉田の奇声にはみんな悩まされた。」 「つまり(『聲』の編集会等で)会うことが重なってくるから、だんだん耐えがたくなってきたんだよ。」

それに続けて大岡氏は更に言ふ。「三島ばかりじゃなくて、吉田健一は吉田茂の息子だからね、おれとの仲も悪くなって、結局、神西清は死ぬ、三島とおれが抜けて だんだん消えていくんだ。」大岡昇平氏は当時大磯に住んでゐたが、同地にゐた吉田茂には反感を抱いてゐたといふ。父親を悪く言ふ大岡氏と吉田氏の関係が悪化す るのは自然だらう。しかし、彼の証言はまだ続く。彼は「吉田にちょっと気の毒」だといふ。吉田氏の件は「口実の気味」があるといふ。…「三島が抜けたのもおれが抜けた のも実は別の理由があったんだよ。」と。

彼は、鉢の木会崩壊の真の理由は、sc恆存氏にあると見てゐる。「三島が抜けたのは、文学座とscの「雲」が別れたからだ」、これが「本当の理由」であり、「元凶はsc、 口実は吉田」だと明言する。それならば、当の大岡氏自身はどうなのか。……「scが日本文化会議を起したろう。『よき思想の集まり』っていって。おれはscの顔を見るのが いやになっちゃったんだよ」「それで抜けた。本当の理由はscなんだ。」

文学座分裂のこと、日本文化会議のことなど、書くべきことは多いが、いづれまた書くことになるだらうから、ここでは触れないことにしよう。たゞ私には謎なのだ。何故彼らは 別れるのに吉田健一の下品な笑ひといふ「口実」を必要としたのだらうか。大岡氏の話を信ずるとすれば、恐らく、三島由紀夫氏も、大岡昇平氏も、直接にsc恆存氏を相手取つて喧嘩をするのを避けたかつたので はないか。これは、sc恆存氏にしても同様ではなかつたか。sc恆存氏は、「鉢の木会は裏切りといふ堅固な土台の上に、美しい友情の花を咲かせ続けることであらう」と書いてゐるが、 三人はその幻の花を自らの手で握り潰してしまふことを惜しんだのであらう。吉田健一氏にはまことに気の毒だが、彼がゐたからこそ、そのやうな微妙な、君子の如き別れが出来たのでは ないだらうか。もつとも、大岡証言の真偽のほどは不明である。

それにしても最晩年になつて大岡昇平氏が、かうしたことを白状したのは何故だらうか。大岡昇平氏はこの対談の後書きに「しやべり疲れて」と題した文章を載せてゐるが、 持病の糖尿病が悪化し、これからは「味気ない余生を送らねばならない。もはややけである。」と書いてゐる。彼もまた、病み衰へる自分のうちに躍々たる日々が蘇るのに、感傷の 翼を休ませたのであらうか。不確かな証言を巡つて、長い感想になつてしまつた。





第17話

 (「世代の証言」・江藤淳)

●座談会が終わると、編集部がハイヤーを呼んでくれた。中村(光夫)さんと私は、帰る方向が同じ鎌倉だというので、当然同じ車に乗ることになった。考えてみれば、中村さんと同じ車で帰宅する などというのは、あとにも先にもこのとき一度きりである。しかも、それが二人きりで交した最後の会話になった。そのとき中村さんは、こういったのである。
「小林も河上も、今ちゃん(江藤注・今日出海氏)にしてもね、友達同士が信頼し合っていたのも、あの世代までだね。それにくらべると僕らの世代は、大岡昇平にしてもsc恆存にしても、友達と いったってまるで違うからね」
「どう違うのですか?」
と、反問しながら、そのとき私はある重要な証言に立会っているのだという緊張感と、胸騒ぎとを覚えないわけにはいかなかった。
「どうって、つまり、お互いに少しも信頼なんかしていないんだ」
と、中村さんは淡々と、しかし少し淋しそうにいった。



◆中村光夫氏の言ふ「小林」とは小林秀雄氏のこと、「河上」とは河上徹太郎氏のことであるのは言ふまでもない。彼らが生まれたのは、小林氏と河上氏が明治三十五年(1902)、今氏が明治三十六年(1903)とほぼ 同年、中村氏は彼らに遅れること約十年で明治四十四年(1911)、大岡昇平氏は明治四十二年(1909)、sc恆存氏は大正元年(1912)である。やはり、小林・河上・今の三氏と中村・大岡・scの三氏では、一時代 異なるものがあるのであらう。 世代観の相違については、sc恆存氏に次の言葉がある。

「私たちが青年時代を送つた時代は、ちよつと特殊だと思ふ。私は大正元年生れですけれども、その前の五つか六つぐらゐ上の、明治に生きてゐた知識人といふものは共通のものを持つてゐる。それはやつぱり未来論的 な物の考へ方、ある意味で言へばオプティミスティックであるといふことですね。」(「反近代について」)

勿論、sc氏は小林秀雄氏や河上徹太郎氏のことを具体的に指して言つてゐるのではない。あくまでも世代一般についての印象表現であらう。しかし、それを小林氏達の世代に適用してみると、やはり一つの世代間の差異 を感じさせるのである。ふと、小林氏とsc氏が鎌倉の天婦羅屋で一杯やつた話を思ひ出した。これは『sc恆存全集』最後の「覚書」にsc氏自身が記したものである。小林氏曰く、「ロンドンの何とかいふ先生と喧嘩 した時だつたか、清水幾太郎に文句をつけた時だつたか、どつちか忘れたけれどね、一番信じられないのは自分だつて書いてゐただらう、それはさうだが、あれは最後に書くことで、初めに言つちやいけないよ、さうだらう…。」 これをsc氏は「さうは思つても口には出すな」といふことか、と思ふ。小林氏は笑ひながら、「さう言つてもしやうがないや、君はそれが言ひたいんだからな。」と決め付けて、後は黙つてしまつたといふ。
私は、小林氏とsc氏の世代の相違を敢へて言へば、この「一番信じられないのは自分」だといふ認識ではないかと考へてゐる。例へば小林氏は、歴史や古典といふものゝ健全性を信じる。勿論、それは西洋の近代文学の毒 を十分あびてはゐるが、その根底には人間性に対する根本的な信頼がある。地に足をつけて生活する人間への信頼と共感がある。彼の文章の魅力とは、その根底が信じられてゐるところから来る健全な強さではないだらうか。
しかし、sc恆存氏や三島由紀夫氏となるとそれは違ふ。彼らは自分達の存在そのものへの懐疑から出発してゐる。一世代前から遅れて彼らが歩いてきた青春時代は、関東大震災(大正十二年)、満州事変(昭和六年)以降の 大東亜戦争への道のりであつた。そして、敗戦である。彼らもまた一世代前以上に西洋の毒にあてられた筈だが、同時に彼らは生活そのものゝ基盤と人間関係を喪失した。また自己の内面を覗き込む自意識は、いよいよ鋭利に 発達し、安易な自己肯定といふものを自らに許すことが出来ぬ場所へと追ひ込まれて行つた。

これは簡単な問題ではない。軽々に論じられるものではない。が、sc恆存・三島由紀夫・大岡昇平の三氏が「僕たちの実態」と題した座談会で次のやうに語つてゐるのは、彼ら自身がこの問題をどのやうに捉へてゐるかを 伺ひ知る材料となるやうに思ふ。 sc恆存氏は大岡・三島氏に対してかう語つてゐる。「二人とも方法は違ふが、無秩序を前提として、文体で、いひかへれば、現実とは別の次元に秩序をこしらへようとされたわけですね。」「大岡さんは見事に断ち切つて、 論理で言へない心理など、自分の泣きたいやうなことでも完全に無視した。三島さんは、論理の上に論理を重ねて、嘘を造らうとした。」しかし、この言葉はsc恆存氏についても当て嵌まるものではなかつたか。 「人生そのものが仮説なんだ」といふ人間観・人生観はsc氏の根本にあるものだつたが、それは無秩序な現実に対して「仮説」といふ論理を立てゝ筋を通してゆかうとする態度ではなかつたか。「劇的なるもの」 を人間にとつて根源的な生の在り方と結びつける氏の考へ方は、氏自身が最も必要だつたのである。「国家もフィクションなら、人格もフィクション」なのであり、その「フィクション」は虚構であると同時に、単なる虚構ではなく 「堅固な建造物」である。これは、自分自身をも「フィクション」と見なすことであり、他人も、友情も、すべてがさうなのである。しかし、これを矛盾と言ふべきか。彼らにとつて、自己や他人への誠実を望もうとすれば、 自他の「フィクション」を認める以外に方法はない。自分は「フィクション」などといふものとは無縁だと考へた時、人間は自己の誠実を絶対化し、自己欺瞞に陥るのである。小林秀雄氏は、sc恆存氏ら遅れて来た 世代の後輩たちのこの苦しみを知つてゐたに違ひない。「ははははは、さう言つてもしやうがないや、君はそれが言ひたいんだからな。」―sc恆存氏は最後の「覚書」で、さう言ふ先輩の姿を懐かしんでゐる。





第18話

 (「以友輔仁」・原文兵衛)

●昭和五年、私は旧制浦和高校文科甲類(英語)に進んだ。(中略)文科甲類のクラスでは席がアイウエオ順になっていたので、先日亡くなった劇作家のsc恆存君と机を並べていた。 私は柔道三昧、sc君は当時からシェークスピアを原典で読んでいた文学青年で、親密とは言えなかったが、お互い世に出てからかかわりが深くなり、sc君が文学座から分かれて 現代演劇協会・劇団「雲」を設立したときは側面から応援させてもらった。

◆原氏は政治の世界の人であり、戦後、警視総監、参議院議員、国務大臣環境庁長官、、参議院議長などを歴任した。sc氏が「雲」(昭和三十八年)を設立した時、原氏は警視総監を 勤めてゐた時期である。原氏の姿はsc恆存氏の告別式が執り行はれた青山葬儀所でお見受けしたが、sc氏にもかやうな政治界の友人がゐたのかと印象に残つてゐる。 劇団「雲」創立以来、原氏は「評議員」としてsc恆存氏の仕事を「側面から応援」し続けた。その原氏も、平成11年9月7日に急逝された。





第19話

 (「声の残り」・ドナルド・キーン)

●吉田(健一)が私の本を読み、翻訳したことによって、事態が意外な方向に発展することになった。彼は、私の本を読むまで、連歌について、殆どなにも知らなかったと言うのだ。 だが複数の作者が寄り合って、共に歌を詠む、というのはまことにおつな思いつきだ。だから鉢の木会のメンバーでやってみようではないか、と彼は提案した。もともとこのグループ は、まだ食糧や酒が乏しかった時代に、仲のよい作家が集まって作ったものだ。名前のいわれは、乏しいものを分け合うというこの会の精神が、謡曲『鉢木』に出る話を思い起こさせる からであった。
私もある時、この集りに招かれた。場所は吉田健一の家。手許に残っている当日の写真を見ると、グループの大抵のメンバーの顔がそろっている―大岡昇平、sc恆存、三島由紀夫、 神西清、吉川逸治などだ。今この写真を見る時、私の最初の反応は、「なんとまあ、みな若かったことか!」というのだ。二番目は、まあ、よくもこんなに傑出した作家が、一堂に 集まったものだ、という驚きである。今は、これに匹敵するほどすぐれた作家が、果してどれだけ集まるだろうか?
その晩、確かに連歌の会は行われた。私はいつか吉田に、その原稿を、一部分でもいいから公表させてくれ、と頼んだことがあった。しかし彼は、その頼みをことわった。理由は、その夜 の「歌人」は、みなあまりにも酔っぱらっていて、とても自分の作品に責任が持てるような状態ではなかった、というのだ。鉢の木会は、その数年後に解散した。そのおもな原因は、会員 間に起こった心理的摩擦だったらしい。なぜかは知らないが、吉田と三島が、まず仲たがいをし、そのほかのメンバー間にも、不和が生まれたのだという。向こう意気の強い作家ばかりの 集まりであれば、おそらくそれは、致し方のないことだったのにちがいない。

◆これは新聞紙上に連載された「私の文壇交友録」と副題されたキーン氏の文章である。 鉢の木会については以前、吉田健一、大岡昇平氏の文章について触れたが、再度、別の人の文章で眺めなおすことになる。 こゝでは吉田氏の提唱で、鉢の木会の会員が「連歌」の会を催したことが紹介されてゐる。あゝ、そんな一夜もあつたのか、と私は驚く。それにしても、皆、酔つ払つて(酒の苦手なsc恆存氏 はどうだつたのだらうか?)、「とても自分の作品に責任が持てるような状態ではなかった」のである。ドナルド・キーン氏はsc恆存氏と対談を行つたことがある。対談のタイトルは「日本・その文化 と人」(中央公論社刊)となつてゐるが、その中でsc恆存氏が次のやうに語つてゐるのが印象的であつた。

「現代の日本人が、日本の過去の伝統的な文化と、西欧の現代の文化あるいは、過去の文化ととどちらに身近なものを感ずるか、といふ問題を日本人の側として考えてみたい」

sc恆存氏は、安易な「日本禮賛論」といふものを一切認めなかつた。それは、インフェリオリティ・コンプレックス(劣等感)の裏返しの「禮賛論」に過ぎないことを氏は見抜いてゐた。 この対談でも、「普遍性」といふ言葉が随所に語られるが、氏が『人間・この劇的なるもの』、『芸術とは何か』などで語つたものも、日本人である自他を、偏狭な自己正当化や自己否定を以つてとらへる のではなく、人間性の「普遍」に通ずる場所で発見しなおすことを提唱したのに他ならない。あるイエズス会神父との対談でもsc恆存氏はかう語つてゐる。

「私たちにとつて西洋はもう伝統のひとつです。明治以来そろそろ百年過ぎてゐます。この百年を無視して、明治維新の時のやうに直すわけに行かない、どんな悪いことがあつても直すことができない。 西洋を伝統にしていかないと、この百年がむだになつてしまふのです。この百年を生かすためには、過去の日本をひとつの伝統とすると同時に、西洋の過去も伝統とする必要があると思ひます。西洋は 輸入元ぢやない、日本のインテリにとつては西洋は故郷です。」(「新劇と伝統」)

世に、保守の立場の理論武装としてsc恆存氏を担ぎ、利用する向きもあるやうに思ふ。それは氏が最も唾棄した軽薄な似非保守思想である。日本人として、「人間の普遍性」に通じる人間観を如何に 考へるか、明治以降の「百年」がむだになつてしまはぬやうに、近代日本が辿つて来た宿命にひそかに思ひを巡らし、熟考し続けることの大切さを、改めて思ひ知る言葉である。





第20話

 (「二十世紀研究所」・清水幾太郎)

●昭和二十年八月、戦争は終った。私は三十八歳になったばかりで、読売新聞社の論説委員であった。敗戦によって、或る時代が終り、他の時代が始まったとも言えるし、古い権力が消え、新しい権力が 現れたとも言えるし、一つの革命が開始されたとも言える。 (中略)先日、拙宅の書庫を取毀したら、もう散佚したものと諦めていた戦後の日記のノートが転がり出て来た。それは、昭和二十年九月一日(土)から書き始められている。(中略)「九月十二日(水) sc恆存来社。明後日午後拙宅へ来る由。……東條英機大将自殺未遂の報入る。」sc恆存は、この文章に何度となく登場しているが、昭和十八年、例のアメリカ研究室へ彼を招いてからは、頻繁に接触し ていた。

◆いつかは書くだらう、書かねばならないだらう、と思つてゐた。清水幾太郎氏の事に触れざるを得ない時が来るのは、分つてゐた。先に引いた文章は、清水氏の「二十世紀研究所」と題したものからの 一節である。彼は戦後、日記を丹念につけてゐたやうだ。何の目的で…。さう思ふと、sc恆存氏の『全集』第一巻の「覚書」の一文が頭に浮かぶ。氏はかう記してゐる。

「世代の対立」の中に次の一節が出て来る。「かうしてぼくの日々は克明に日記をつけることによつて費されていつた。周囲のひとびとの言動や心理を、あるいはまた自分の心の動きを書きつけるのである」 とあり、昭和二十二年の「時代」三月号所載となつてゐる。が、正直の話、私はこれを読んで驚いた。私は今までに日記などといふものをつけた覚えはない。(中略)この一節は何かの意図で意識的に記した ものに相違ない。事によると、私の「周囲」には、私に何かを書かれたら困るやうな人物がゐたのかも知れぬ。その弱みを私だけが知つてゐて、その人物に二度と再び同じ愚を犯させまいといふ配慮からこの やうなことを書いたのであらうか。

清水氏とsc氏の付き合ひは、年譜で知る限りでは、昭和十九年に清水氏がsc氏を太平洋協会アメリカ研究室(主幹・坂西志保氏)に研究員として紹介、推薦した頃からであらうか。当時、清水 氏は三十七歳、sc氏は三十三歳であつた。二人は、清水氏率ゐる「二十世紀研究所」でも関係があり、敗戦後の混乱期に交つてゐる。sc恆存氏は清水氏にどのやうな思ひを以て接してゐたのであらうか。 「覚書」に氏は、「私の『周囲』には、私に何かを書かれたら困るやうな人物がゐたのかも知れぬ」と書いてゐるが、私には、その「周囲」の中心に清水氏がゐたやうに直感する。両人とも鬼籍に入つてしまつた今、 二人だけが知つてゐる事、当人同士だけが感じてゐた何ものかに触れることに、或る重たさを感じる。それは触れてはならないことなのだらうか。しかし、sc恆存氏の「言葉」が生れて来る淵源に、彼が 嘗めた辛酸や痛みがある筈である。それに無痛覚であるといふことは、氏の「言葉」の上つ面を撫ぜてゐるやうで、空しい感じがする。氏の「言葉」の裏に、どのやうな心情が隠されてゐたのか、不遜と非禮を 承知で、暫くそれを見つめてみたいと思ふ。





第21話

 (「二十世紀研究所」・清水幾太郎)

●彼(sc恆存)は東京で二度空襲に遭い、既に大磯へ移っていた。「明後日」というのは、その日に、埼玉県朝霞の塩味という農家に預けてある衣類と書物とを拙宅へ運ぶことになっていて、その仕事を彼が 手伝ってくれるというのである。(中略)拙宅に着いたのは午後三時過ぎであった。sc恆存が来ていて、荷物を牛車から屋内へ運び入れる作業に当ってくれた。「彼遅く帰る。彼からラッキー・ストライク およびチェスターフィールドを貰う。」別れる時、翌々日、荻窪駅頭で会う約束をしたが、その日は、私の乗る電車がひどく遅れて、到頭、会えなかった。十九日に会っている。

◆清水氏はsc恆存氏が自分の引越しの手伝ひに来てくれたことを記録してゐる。あの痩身のsc氏が、重たい書籍や、衣類を牛車から降ろして運んだのであらうか。sc氏は、清水氏のことを「私の敬愛 する先輩」(「ふたたび平和論者に送る」)と書いてゐるが、たしかに戦後すぐのこの頃、sc氏は清水氏をその言葉通りに感じてゐたのかも知れない。また、sc氏はかうも書いてゐる。「私は清水さんに身近 なものを感じるが、もし清水さんの弱点をいへといはれれば、ただひとつ、とりまきに甘えることだとおもひます。つまりは、さびしがりやなのでせう。ただ清水さんの育つた環境が、上の人に甘えることを許さ なかつた。長上や強いものに対しては、つねに片意地な反抗の姿勢をとる。が、それだけ下のものに甘えるのです。」(「個人と社会」)……sc恆存氏は、清水氏に親近感を抱きながらも、やはり、一定の距離 をおいて付き合つてゐたに違ひない。清水氏はかつてsc恆存氏と対談した折に、戦争中の防空壕について語り、「ぼくは戦争中、板橋の常盤台にいた。家へ来る学生がケチな防空壕を掘ってくれ」た、と言ふ。 かたやsc恆存氏はどうであつたか。sc氏はかう記してゐる。

戦争は年内で終ると見た私は自分の痩腕に精一杯の力をこめ、新しく移つた麹町二番町の家に二つの防空壕を掘つた。庭の方は書物と文房具用のものであり、その文房具のうちには、萬年筆、鉛筆、消しゴムの 類ひの、どんな零細な物でも見逃さず、びつしり詰めこんで、普段は出し入れ無用とばかり、上には土を高く盛り上げ、湿気で本が蒸れることを恐れて、只一箇所だけ、一尺角ぐらゐの穴を作つて、天気のいい 時には蓋を開けておくやうにした。(中略)もう一つの玄関脇の防空壕は、父、母、妹二人、既に身篭つてゐた家内と私と、そのほか来客でもあればと、空席を二つ三つ用意した。

どうであらうか。自分の学生達に「ケチな防空壕」を掘つて貰つたと言ふ清水氏と、自力で堅牢、入念な防空壕を掘つたsc氏とは、あまりにも対照的である。やはり清水氏は「下のものに甘える」性格なのか。 常に「とりまき」に支へられてゐなければ気が済まない清水氏の「弱点」が、思想などといふことを持ち出さなくとも、「防空壕」掘りのやうな生活事実の断片が、性格と姿勢を見事に示してゐるやうに思へて ならない。sc氏は「よく、あんなものを二つも掘れたものだ、誰かに褒めてもらはなければと思ふ」と言ふが、私は、膝を打つて、大いにsc恆存氏の奮闘に拍手を贈りたい。





第22話

 (「二十世紀研究所」・清水幾太郎)

●「一月二十日(日)午後、細入藤太郎、大河内一男来訪。」あの頃、大河内一男 は東大経済学部教授、中野区江古田に住んでいたと思う。その日、後に東大総長と して自らを密かに「痩せたソクラテス」に擬した人物は、自転車に乗って板橋区常 盤台の私の家へ走って来た。この日の相談で、財団法人を設立するに足る資金を細 入君が寄附し、これによって一つの研究所を設立する話が正式に決まった。(中略) 研究所の正式の目的は、「社会科学および哲学の研究と普及」ということに決まっ た。(中略)勿論、研究所は、私個人の所有物ではないが、細入藤太郎は立教大学、 大河内一男は東京帝大という風にそれぞれ本職があり、読売新聞社を退社した私だ けが自由の身なので、研究所は自ら「私の仕事」になり、私が所長ということにな った。しかし、この三人で研究所が活動出来るわけはなく、多くの人々の参加およ び協力を求めねばならないのだが、sc恆存にしろ、高橋義孝にしろ、気心の知れ た友人の大部分は文学関係の人間で、社会科学方面の人間は殆どいない。

◆清水氏は、大河内氏と話をする前に、既に細入氏と研究所の名称を決めてゐたと いふ。「とにかく、名称を先に決めよう。その方が内容を決め易い」「名称は、出 来るだけ大きなものにしよう」と清水氏は言つたといふ。そして、彼の提案で名称 は「財団法人二十世紀研究所」に決した。私は、かういふ清水氏の発想といふもの が理解出来ないでゐる。「内容」よりも先に「名称」が決する。従つて「名称」は どんな「内容」でも受け容れられる「出来るだけ大きなもの」が良い。……一体、 清水氏は何をしたかつたのだらうか?
もう一つ気になる事がある。sc恆存氏の『全集』年譜には、昭和十九年の項に「清 水幾太郎の勧めにより、坂西志保が主幹をしてゐた太平洋協会アメリカ研究室の研究 員となる」とはあつても、清水氏の作つた「二十世紀研究所」に所属したといふ記述 は無い。これは以前に出た新潮社刊の『sc恆存評論集』の年譜も同様である。 清水氏は「昭和二十二年の名簿によると、私たち三人のほかに、十五名の研究所員 がいる」と書き、その中に「sc恆存」の名前もあるといふ。その「名簿」を私は 見たことはないが、仮にそこに「sc恆存」の名前があつたとしても、sc氏は「二 十世紀研究所」などといふのを、自分の年譜に載せる意義を認めなかつたのであり、 自分の仕事ではないと自覚してゐたに違ひない。さう言へば、『近代日本知識人の 典型清水幾太郎を論ず』で、sc氏はかう書いてゐた。

 『わが人生の断片』に私の事が屡々引合ひに出され、恰も私が氏と同じ様な心境 で戦時中と戦後の一時期を過したかの如き印象を與へてゐるので、もう遠慮はしな い事にした。(中略)私との附會ひについても、氏の本能的叡智は都合の悪い事を 都合よく忘れてしまふらしい。他にもさういふ事は澤山あらう、それは文章を見れ ば解る、その内容ではなく語り口を見さへすれば迷彩の蔭にゐる筆者の居所が、は つきり見えて来よう。

確かに、「内容ではなく語り口」を見ることが大切であらう。それは、sc氏の場 合も同様であらう。「もう遠慮はしない」といふ言葉の裏には、確かに「敬愛する 先輩」に対する遠慮があつたことを告げてゐる。それは、かつての「先輩」に対す るsc氏の禮儀であつただらう。人としての慎みであつただらう。sc恆存氏より 痛烈な批判の言葉を聞いた清水氏は、一体如何なる思ひで晩年を過したのであつた か。





第23話

 (「二十世紀研究所」・清水幾太郎)

●昭和二十四年に入ると、二十世紀研究所の談話会が、二月に一回ぐらいの頻度で あったが、岩波書店の会議室で開かれるようになった。(中略)しかし、二十世紀 研究所の談話会が開かれる岩波書店の会議室では、「戦争さ平和に関する科学者の 声明」が発表された後も、時々、平和問題談話会の会合が開かれていた。どういう 規準や方法で平和問題談話会のメンバーが選ばれたか、私は全く覚えていないが、 二十世紀研究所のメンバーと平和問題談話会のメンバーとは、少し重なり合ってい た。「少し」と言うべきではないかも知れない。二十世紀研究所のメンバーのうち、 中野好夫、宮城音弥、渡辺慧、丸山真男、小生など、十名近くは平和問題談話会に 入っており、大河内一男、sc恆存、林健太郎、高橋義孝、細入藤太郎など、十名 近くは入っていない。(中略)ひどく疲れている時などは―何時でも、ひどく疲れ ていた―夕方、会議室へ飛び込んで、既に来ている何人かと話しながら、はて、今 夜は、二十世紀研究所の会合だったのか、平和問題談話会の会合だったのか、と考 えることがあった。二つのグループに入っている私は、そんな暢気なことが言える けれども、二十世紀研究所のメンバーであって、平和問題談話会に属していない人 たちの眼には、自分たちに関係のないことで忙しそうに振舞っている私や私たちは、 どう見えていたのであろう。

◆こゝに言ふ平和問題談話会は、雑誌『世界』を出してゐた岩波書店の組織になる ものである。この会には、次のやうな人々が参加してゐ た。
安倍能成・和辻哲郎・清水幾太郎・羽仁五郎・武田清子・鶴見和子・中野好夫・南博・ 宮城音弥・宮原誠一・久野収・ 田中耕太郎・高木八尺・蝋山政道・鵜飼信成・川島武宜 ・丸山真男・辻清明・沼田稲次郎・大内兵衛・矢内原忠雄・有沢広巳・脇村義太郎 ・高島善哉・都留重人・丘英通・富山小太郎・渡辺慧・八杉竜一・恒藤恭・桑原武夫 ・田畑忍・前芝確三・新村猛・ 松井清 (以上三十五名)
清水氏は自ら回想してゐるやうに、これらの平和問題談話会の「オーガナイザー」として 多忙であつた。彼は、「どういう規準や方法で平和問題談話会のメンバーが選ばれ たか、私は全く覚えていない」と言ふが、果してさうであつたか。彼は二十世紀研究所を 作る時にsc恆存氏や高橋義孝、林健太郎氏たちに声を掛けたやうに、何故、平和問題談話 会の時には彼らに声を掛けなかつたのか。「全く覚えていない」などと言ふのは、 清水氏の空とぼけではないか。
sc恆存氏は、かう書き残してゐる。

 昭和二十九年の夏、私は偶然パリで清水氏と出遭ひ、広場のベンチに腰を降し、 どういふ話の切掛けだつたか、自分は帰国したら先づ平和運動否定、知識人批判を やる積りだと言つた時、氏は自分も同感だ、二十世紀研究所で是非それを喋つてく れと言つたのである。事実、その年の十月初め頃、私は『中央公論』の為の覚書に 随ひ、氏の司会のもとに岩波書店の一室で所見を述べてゐる。清水氏がパリで私に 嘘を言つたのでなければ、その頃から氏も平和運動に疑問を懐いてゐたといふ事に なり、その疑問を懐きながら、日米安保条約反対闘争に突進して行つたといふ事に なる。

ことほどさやうに、清水氏の言行の不一致と矛盾は、sc恆存氏でなくとも誰の眼に も明らかである。しかし、当の清水氏にしても自らの計算通りに生きてゐたわけ ではないのだらう。「はて、今夜は、二十世紀研究所の会合だったのか、平和問題 談話会の会合だったのか」……自己の本気の所在を見失つてゐる不幸に、氏は自ら 気付いてはゐない。だから、安保闘争後に、何の矛盾もなく『核の選択』を書き得 たのである。sc恆存氏は、さういふ清水氏が、一人の思想家として既に生命を終 つてしまつてゐることに対して、「同情を混へた嫌悪感」を禁じ得なかつたのであ る。





第24話

 (「日本の思想と文学」・清水幾太郎/sc恆存対談)

●sc 文学は文章の芸術ですからね。政治的な関心とかいふものだけからではどうにも ならないんです。文章といふものは、語彙・文体・思考方法、すべてにわたつて われわれに制約を課すもので、法律や制度を変へただけではどうにもならないものがある でせう。我々は我々の文章で捉へ得る範囲内の現実しか捉へられないのです。 (中略)清水さんが気を悪くなさるかも知れないが、学者の文章といふものは、あれは 安全地帯の文章で小説家の使ふ文章とは違ひますね……。
清水 違ふだらうね。
sc 学者でも本当は表現の世界の住人で、作家と同じ苦しみを感ずるはずなんだけれどね。
清水 うん。
sc さういふことがね。文学者の場合はもつとひどく感ずるので、それだからどうにもしなくても いいといふのではない。
清水 文体といふものを下世話にいつてしまへば、道具ですね。
sc 文学者の場合、さう言ひ切れないことが問題ですが、まあ、さう仮定しますと…?
清水 さうすると、道具が、耳掻きで、スコップでないといふことね。さういふ耳掻きでは具合 が悪い、スコップを必要とするやうな問題にぶつかつて行つて、その過程で道具を矯め直さうと いふ試みは、未完成ながら若干はある?
sc いや、無いでせうな、やつぱり。
清水 ふ−ん、作家といふものは、意気地のないものだな。
sc 無いと言ふのは言ひ過ぎでせうが、ある意味で宮本百合子さんなんかそれをやつたり、 やろうとしたわけでせう。ところが、それは僕に言はせてもらふと、どうも面白く ないのだなァ。

◆今回は、sc恆存氏ご自身にも登場して戴く。これは、『人間』昭和二十六年四月号に 掲載された二人の対談である。昭和二十六年と言へば、sc恆存氏はこの年、戦前に刊行が かなはなかつたD・H・ロレンスの『アポカリプス論』翻訳を出版してゐる。また、チャタレイ裁判 の特別弁護人を引き受けた年でもあつた。
さて、二人の対談だが、文章や文体に関して、二人は全く異なる考へと態度を持つてゐた。 その象徴的な箇所として上記の対談の一部を引いたのだが、sc恆存氏はあきらかに清水氏 を含めた「学者の文章」の弱点を鋭く突いてみせた。しかし、清水氏の反論は、文学者の チマチマとした文章工夫など、所詮「耳掻き」を器用に扱つてみせるに過ぎない、とでも言ふ 如きものであつた。彼は、「スコップを必要とするやうな問題」(それは、彼自身が関はつて ゐた平和問題談話会などが扱ふ政治問題、社会問題、思想問題の領域を意味してゐるのだらうが) には、文学の「耳掻き」程度の文章や文体などでは、世論を動かし、社会を変革し得ない、といふ のである。
しかし、sc氏はさういふ「社会科学者」の言語観を本質に於いて批判する。これは、中村 雄二郎氏との対談で語られた言葉である。

「たとへば『民主主義』といふ時あの人たちは一体なにを見てゐるのか。その場合に、現実と 言葉とを関連させないで、言葉だけを処理してゐる。社会科学といふものは、さういふ 言葉を扱つてゐるといふことを僕は自覚してもらひたい。ところが社会科学といふものは、 言葉といふものと、事実といふものとすぐ直結して考へてゐるから、言葉を動かして ゐると、それだけで現実を動かしてゐる、いつも現実にさはつてゐると錯覚する。 自然科学者ならばH2Oといへば、これは記号であつても水素や酸素にさはつてゐるんですね。 しかし、それと同じやうに『民主主義』とか、『安保闘争』とかいふ言葉で、なにか現実にさはつた やうに考へてゐる。」

こゝには『批評家の手帖』を書いた批評家の、鋭く厳しい眼が光つてゐる。「確かなものは一つもない。 おそらくそのためであらう、人は確信をもつて語り、確信をもつて行ふ。少なくともさうすることを好む。 つまり、言葉をもつて、あるいは行動によつて、他人を支配しようと欲する。その支配の過程を通じて、 未確定なものが始めて確定的になる。」さう、sc恆存氏は書いてゐる。 彼には、「言葉」への、「言葉」を使ふ「主体」への、根本的な懐疑がある。勿論、それは自分自身の「言葉」、 「言葉」を使ふ「主体」への懐疑でもある筈である。もつと言へば、その懐疑があるゆゑに、彼は「言葉」に 絡め取られることから免れる。……「無が出てこなくちやいけないんですよ。あるいは西洋流に言へば『絶対』 だ。『絶対』が出てこなければいけないんだ。出てこないところでごまかしてゐる、社会科学は。」―恐らく、 自分の「言葉」が、「言葉」を使つてゐる積りでゐる「主体」としての自己が、根本の存在を「無」や「絶対」の前 に晒すところまで本質的に人間を純化して考へる、深化させて考へる、さういふ要請と努力が「社会科学」的知性には 欠落してゐるのであらう。
 現代では、「社会科学」は流行らないから、「マーケティング」などといふものも同様のものと考へて よいであらう。人間と人間の世界をデータによつて集計し解釈し得ると考へ、そこに操作を仕掛けることによつて「消費者」 といふ連中は「囲ひ込まれる」のだ、といつた倨傲な思考が、手を替へ品を替へ、私達の精神の弱さにつけ入つて ゐる。 その意味で、sc恆存氏と清水幾太郎氏の対談で語られた事は、今日に於いても、また未来に於いても、何度でも 繰返し語り続けられなければならない事であらう。





第25話

 (「sc恆存氏の顔」・三島由紀夫)

●小林秀雄氏がsc氏の風貌を、一言を以て評して、「清潔な鳥みたいだ」と言は れたさうだが、私にはとてもこれ以上の簡潔的確なデッサンはとれない。そこでごく自然 主義風な描写で、氏を架空の小説の中に登場させてみることにする。

「……彼がそこに立つて、パイプをくはへて、何か忙しい対話の終つたあとの空気 を見つめてゐる。人のゐない目の前の空間を、今彼に与へられたつかのまの閑談の 時間のやうに、煙草の煙が充たす。
趣味のよい服を着てゐる。縞のYシャツに 縞のネクタイを締めてゐる。どちらの縞も細かい。四十をずつと超えてゐる筈だが、 せいぜい三十七八にしか見えぬ。しかしこの若さは、いつまでも肉体に青年らしさ の抜けきらぬ人のやうな、浅間しい肉感的な若さではない。世間の青年のやうに、 若い時分にむやみとシンセリティーを濫用して、使ひ果たしてしまふことをしなか つた結果、かうしたストイックな処世の結果、今も青年のシンセリティーが、彼の 姿を若々しくしてゐるのかもしれない。それは目を見ればわかる。目は彼の一番 美しい部分である。青年の目が、これからその周囲の皮膚が皺に覆はれても、丁度 皺立たせたビロードの中央にはめ込まれてゐる指環のやうに、少しも色褪せずに 残るだらう。」

◆今年は、銀杏の黄葉が遅いと思つてゐたら、憂国忌がいつの間にか過ぎてしまつ たことに気付かずにゐた。さう言へば、sc恆存氏も三島由紀夫氏も、ともにこの 晩秋の季節に逝つたのであつた。sc恆存氏は、死に臨んだ三島氏の心中を想ふと、 涙を禁じ得ないと自らの『全集』覚書に記してゐる。sc氏も、この見事な銀杏の 黄葉の季節に、三島氏の死を刻印したであらうか。引用した三島氏の文章は、過剰 な修飾を施してはあるが、sc恆存氏の「目」に一点の凝視を忘れなかつた。「目 は彼の一番美しい部分である」―と三島氏は言ふ。その「目」が、数年後の三島氏 の死を見詰め、そして、その心中を想つて涙を流すのであつた。
「私は顔といふものを信じる」―三島氏はさう書く。「明晰さを愛する人間は、顔 を、肉体を、目に見えるままの表面を信じることに落ち着くものだ。といふのも、 最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。」sc恆存氏は、三島由紀夫氏 の死について「わからない、わからない……」と言ひ、人々は勝手な意味をその言 葉に付した。しかし、sc氏は、三島氏の「最後の謎、最後の神秘」を無用な解釈 で汚すことだけはしたくなかつたに違ひない。彼は、たゞ黙つて対しただけであつ た。